行人塚
2012-05-23


 狭山丘陵に姨捨山に近い話が伝わります。昭和19(1944)、小学校5年生でした。都内の八丁堀から戦火(第二次世界大戦)に追われて、疎開という名で、東大和市(当時は大和村)の狭山に引っ越して来たときのことです。狭山田んぼ(廻田谷ッ めぐりたやつ)が第一小学校への通学路でした。気楽な一人住まいだったのでしょう、ひ弱な疎開っ子に心を寄せてくれたのか、学校の行き帰りに声をかけてくれるおじさんが居ました。


 そのおじさんからいろいろ聞いた話の一つが「行人塚」です。大根飯に種がら芋が主食で、いつも腹を空かせていた子ども心に、この話は云いようもない深い印象を植え付けました。それでも、怖い物見たさで、まだ、厳重ではなかった貯水池の柵をくぐって現地に行きました。落ち葉に埋まった塚に出会って、ぎょっとして、おじさんの所にも寄らず一目散で家に帰ったことを思い出します。昭和50年代になって、公民館活動から郷土史の研究に入った「みちの会」が次のように採録して下さいました。

 

「行人塚(ぎようにんづか)

 

 湖底に沈んだ村の南側に続く狭山丘陵の中に、大筋端という所があり、その山の中に塚がありました。村の人びとはこの塚を「行人塚」と呼んでいました。

昔、ここは足腰の立たなくなった老人や、行きだおれの病人達が、静かに死を待つ場所であったという言い伝えがあります。

 

江戸時代まで、ここには風化された人骨があったとか、夜など死人の怨念が人魂になって飛ぶのを見たとか言う人もいたそうです。

 

いつ頃のことかさだかではありませんが、元禄の頃といわれていますが、一人のお坊さんがここを通りかかり、あまりに悲惨な様子を悲しみ、里人達にその供養をたのみました。

「私が打つ鉦(かね)の音を聞いたら、里人よ山にのぼってきて死体をねんごろに葬ってほしい」と。

 

 それからというものお坊さんの打つ鉦の音が山合いにひびくと、里人達は山に登って死人を手厚く葬るようになりました。

 

 それから誰いうとなく、この塚のことを、「行人塚」と呼ぶようになったそうです。

この話は親から子へ、子から孫へと言い伝えられてきたのでしょう。明治になってからもまだ人魂が出るとか言って、あまり人が近寄らなかったようでした。


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