玉川上水・野火止用水から、東大和市域の村々では一滴の水の恩恵も受けませんでした。両用水の直接の利用から徹底してはずされています。しかし、玉川上水は別にしても、野火止用水からは位置的にも、充分利用できたはずです。当時の村人は腹に据えかねていたかも知れません。
そして、飢饉の最中、野口村(東村山市)の名主が破天荒とも言える「願い出」をします。結論的に云えば、
「野火止用水から分水して水を供給すれば、「畑」を「田」にすることが出来るから、分水口を設けさせてくれ」
との願い出です。天明5年(1785)10月のことでした。
天明3年、前年からの不作で、米価が上昇、春になっても寒く、多摩地方では不作が続き、飢え人が出始めました。加えて、冷夏、8月25日には浅間山が噴火と気が重い中、食糧不足の足しにと、代官から藁を利用した「藁餅仕法」(わらもち)が通達されます。
あけて、天明4年、食糧不足が続き、岸村(武蔵村山市)では、総人口の3分の2が「夫食拝借」(食べ物を借りる)願いを出しています。東大和市も同じ状況であったと推察できます。
このような状況を背景に、箱根ヶ崎の狭山が池に集まった農民が狭山丘陵南麓の物持ちを対象に「天明の打ち壊し」を起こします。一説に2~3万人が集まったとされます。東大和市でも油や肥料を扱っていた名主宅が打ち壊されました。
そして迎えた天明5年には、正月早々、江戸で火事が多発し、物価上昇が続き、幕府はその引き下げに追われました。
このような背景の中、野口村の名主勘兵衛が野火止用水から水を引いて、畑を田に代えたいとの願いを代官に出しました。
「乍恐以書付奉願上候
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